濃い目の緑茶

去年、Netflixで観た病院を舞台にしたドキュメンタリーで、死は取り返しのつかないものだと知りました。

当たり前のことですが、改めて言葉にしてみると、こんなにもしっくりとくるものはないと思います。

 

私の親しい人が、近々この世を去ります。

何年も前から分かっていたことです。この数年間、何度も会いに行きましたし、会えない日には電話をと気にかけてきました。

 

彼女がこの世を去る、こんなにも辛いことなのに、長い時間をかけてじっとりと私の日常の中に溶け込んでしまっています。

彼女が癌だと分かったときも、もう先は長くないと知った今も、わたしはショックを受けているはずなのに、奥の方まで染み込まず、いつまで経っても実感が湧きません。

 

今朝、夜明けのあけぼの色に染まっていくビルを眺めながら、彼女はベッドの上で同じ景色を見ているだろうか、彼女は今どんなことを考えているだろうか、と思いを巡らせました。朝のおとなしい空気が、私のからだの真ん中、内側のどこかに入り込んで苦しがりました。

 

また朝がきました。また一日が経ってしまいました。

本当は今すぐに会いにいって、すべてのことは大丈夫だと伝えたいのです。何も心配することはない、怖いこともない、痛いところを優しくさすって、ただただ同じ景色を見ていたいのです。

あなたと何度も花札をしていたいこと、また一緒に温泉へ行きたいこと、朝寝坊をして怒られたいこと、あなたの作った甘いおうどんをすすりたいこと、今度は一緒にばら寿司を作りたいこと、どうして伝えられないのでしょう。

 

何もすることができないまま、すっかり明るくなってしまった外を何時間も何時間も茫然と眺め続けています。お気に入りのカップに入った濃い目の緑茶が私の目を覚ますのに、舌にふれる温かさが、もうこれ以上起きていられないほどに瞼を重くもするのです。

 

死が本当に取り返しの付かないことだと分かっていても、分かっているから、私はこんなにも執着し、怯えてしまうのでしょう。死に対する何もかもが受け入れられないのです、理解もできないのです。

 

今日は一日中こんなことを考えて過ごすのでしょう。太陽がもう少し元気になったら、そうしたらあなたに電話をかけます。すべてが大丈夫になるように、わたしが大丈夫になるように。