ぐずぐずエブリデイ

日記です。

もし私が本物だったら

スピリチュアル系の原稿作成を依頼され文章を書いている時、「これはスピリチュアルではなくて心理学の領域なんじゃない?」と思うことがあります。「これはスピリチュアラーではなくて、専門家の意見が必要なのでは?」と思うこともあります。

 

例えば読者や視聴者の目の前に起こっている問題の原因が、幼少期に親から愛されなかったことや、パートナーからの暴力など、心の深い傷に関係しているんじゃないかと感じる時。

あるいは幼い頃のトラウマが原因で問題が起こっているというような構成にして欲しいと依頼された時には、違和感というか、どこか心の中でモヤモヤとしたものがありました。

 

そのモヤモヤが、最近ハッキリしました。私は心の専門家でもなければ、霊が見えたり神の声が聞こえたりするようなスピリチュアラーでもない、本物になりきれない偽物です。まがいものの私が画面や紙面を通して私の文章を読む人の心になにができるのかと、私は私を軽蔑しています。

 

「専門家に相談するように」「一人で考えこまないで」「逃げてもいい」。そんなもの、当の本人はとっくに分かりきっていることで、だけど動けない。だからこそ苦しいんじゃないかとも思います。私の書くことは所詮すべて綺麗事で、他人事。自分の言っていることが馬鹿馬鹿しくも感じます。

 

深い苦しみの最中にいる時には、分かりきっていたことが曖昧になってしまったり、まっさらな綺麗事でしか救われない心もあったりするとも思います。だけどその心に寄り添うのは、私ではない、偽物の私であっていいはずがないとも思うんです。

 

 

もしかすると死ぬか生きるかの瀬戸際にいる人が私の文章を読むかもしれない。そんな人が、私の文章をキッカケに終わりへと振り切ってしまったらどうしようとも思います。あるいは私の文章を読んだことで、深い傷を負ったり、過去を思い出してどうしようもなく嫌な気持ちになったりしたらどうしようとも思います。

 

私の文章にそんな影響力はないと思いつつも、そして文章を書くことは誰かを傷つける可能性が常にあると思いつつも、私のしていることは果たして正しいことなのか、最悪を引き起こしてしまっているのではないか、という葛藤や恐怖や不安が、常に心の中にあります。

 

 

私はいわゆるゴーストライターで、依頼されてある人になりすまして文章を書いています。その文章を読んだ人が、「救われた」とか「ありがとう」と言っているのを見かけるたびに、正しい方向に逃げて欲しいと思うんです。私がなりすましているその人は、思いやりの気持ちを持つ一方で、相手を食い物にしようとしているんじゃないかしら、とうっすら不安を感じるからです。

 

今までは「なんでもこい!」の精神で、依頼されたことはなんでも書いてきました。でもこれからは依頼を選ぶようにしないとですね。そしていつか本物になれる日がきたら、あるいは本物ではない一人の私として誰かに向き合う日がきたら、その時は、どうだろう。どうなんでしょうね。